昭和50年06月19日 朝の御理解
御神訓 一、「子を産むは我が力で産むとは思うな。皆親神の恵む所ぞ。」
一般に申します、本当に是ばかりは授かりものだからと。そこまでは皆んなが解っている。不思議な不思議な働き、力なしには恵まれる事はないのです。矢張り是はお恵み授かりものだと、そこで授かりものだからと云うて、只一人でに子供が授かると言う事はありません。そこには矢張り男女が一体となり、云うならば天地に道あり、人の踏み行うにも道あり。この人の踏み行う道、云うならば神様の働きの場。
人間の働きの場と云う物が自ずと二つありますけれども、その二つが一つになる時に初めて産みなす働きと云うか、産み成されて来る準備と言うか、そしてそこへ産み成されて来るのであります。と云うてふんなら自分が気張ったと云うだけではない、気張らされて気張るんだと云う事。人力の限りを尽くすと云うても、人力の限りを尽くすと云うても、それは尽くすのではない、尽くさせて貰うのだ。私が頑張ったからと云うのじゃない。頑張らせて頂くと云う元つ働きと云う物があっての事なんだ。
是はおかげを産み成すと云うても同じ意味の事が言えると思う。先日の富久信会に色々お話させて頂いた中に、人力の限りを尽くすと云う事、例えばお商売をさせて頂く人達が、日々此これ是だけの経営をして行く上には、費用が掛かるんだ人件費がどの位、維持費ががどの位と云う様な風に、大体その店々によって百円で良い所もありゃ千円で足りないと言う所もありますでしょう。
そこで私が商売させて頂いて、今日は是これだけの事はなら収入は頂かなければ立ち行かない。だからどうでもお願いをして、そのおかげを頂かなければならない。そしてどうでもその最少限度の所まででもです、おかげを頂く事にもう祈りに祈り願いに願い尽くしに尽くさせて頂いて、初めて私共の打ち向い方一つに依っては、この様に間違いなくおかげの頂けるもんだと云う、確信が生まれて来るんだと思う。
私うしは福岡でお商売をさせて頂く時分の事を話させて貰った。例えば日に一万円なら一万円と云う経費はどうでも頂かにゃいけない。それに今日は幾ら回っても幾ら回っても商いが無い。もうそれこそ願いに願いして回る。もう普通から云うたらまあー五時か六時には家に帰らせて貰うのだけれども。兎に角まぁ十二時までは今日だと。夜の十二時は今日だと、もうそれこそギリギリまで回る。
不思議にですそう一つの迫力と云うか、どうでもと云うその一念を燃やして、例えばお商売をさせて頂く時に、もう不思議に最少限度ではあってもおかげが頂けれる。いや頂けるより頂けるまで修行せにゃいけんのだ。頑張らにゃそして初めてああ神様ちゃ間違いないな、こちらの打ち込み方一つじゃこんなおかげが受けられると云うね、確信が生まれて来ると云う話をしたんです。
皆んなこの話には以前もお話した事もあるでしょうけれども、まあ富久信会は取分けお商売人ばっかりの集まりですから、そこん所を非常に強く感じたらしいんです。はぁ自分達はもう夕方五時なら五時六時なら六時回って売れん時にはもうそれこそ、それがもう神乍らとそれを如何にも神様の御都合かの様に、こちらの精進はせずしといてそれを神乍ら主義に受けて居ったと、云う事に改めて気付いたと云う人が殆どでした。
私は此処ん所に或意味で驚きましたですね。成程合楽は言うならば神乍ら生き方、所謂成行きを大事にすると云う事が言われます。だからはあーもう五時まで回っただけど売れじゃったから、売れじゃったその時点を有難いとお礼を言うて事が成行きを大事にして行く事と思うとる。十二時まで回ってそれで尚かついけなかったらそこを有難く頂かにゃならん。そしてそれも尚です有難く頂くだけではない、私に力が足りんのだからお詫びをする心が要るのです。
自分が商売が云うならば、下手だから商いが無かったんだと云う所に、又商売の道を研究する事も精進する事もなされる訳です。私くしは信心が有難うなるとか、楽しゅうなるとか云う事はです、日に日に刻々です、神様の間違いない働きを実感できての私くしはおかげだからこそです。その事が又楽しゅうも又有難くもなれるのです。例えば妊娠のおかげを頂く。必ずつわりならつわりと言う所を一辺途通なければならないそれを難儀な事と云うたらいけない訳です。
十月十日の日が満ちたら安産のおかげを頂く為の修行だと私は悪阻のお願いに来る人に必ず申します。だからそれを困った事だと受けたらおかげにならんです。それを安産のおかげを頂く事の為の修行だと頂いたら、苦しいそれは普通苦しいけれども有難いんです。妊娠のおかげを頂いてこんな大きなお腹を抱えて、この暑いとにまあその不自由であったりしるしかろう事ありますけれども、そりゃあ困った事じゃあるですのちゃ、誰れん言わんです。そりゃお目出度いとしか言わんのです。
ですからそれが本当にお目出度い事になって来る事の為に精進しなければいけない、努力しなければいけないと云うのです。きつかろうばってん、一生懸命動きなさい。家当たりの家内の場合なんか、もう産むその日まで一生懸命働きます。おかげで隣知らずの安産のおかげ頂きます。私は此処で一つ思わにゃならん事は、様々なものがおかげが産み成されて来ると云う事の、是は一つの前提としてです例えば難儀がある。だがそれは決して難儀ではなくてです、信心のお鍛えだと思わにゃいけんです。
もう絶対にそう頂かにゃいかんです。信心のお鍛えなんです。今私の方では光昭の家内の恵美子さんが、この頃手足がそこここ痛むんです。それで御用も出来ないとまぁ今やっとかっとまあ致しとります。それで私がそれは恵美子さん信心のお鍛えバイて、私がもうし。何々と云う病気じゃないどうした事じゃろうかと云う事じゃない。もう絶対信心のお鍛えだ。ですから連れ合である所の光昭が一生懸命ならん訳にはいかん。
もうそれこそ何もないで只新婚生活の只甘いムードだけで過ごしたら、何処までこの人どんが信心を疎かにするか解らない。けれどもさあ肝心要の家内がそんな風に具合いが悪いもんだから、光昭とてもじっとしちゃーおられない。この頃は毎朝私の出仕をさして頂く時に必ず御用さして貰います。出来たり出来なかったのがこの頃では、だからそれだけでも是はお礼を申し上げねばいけんなあと私は思うんです。
ですからです例えば信心のお鍛えなのですから私共がです、なら自分から進んで信心を鍛えよう、本気で修行さして貰おうと云う修行の、言わば取り組ませて頂いたら、そういう難儀が起こって来る筈がないです。言わば難儀を感ずる時にはです、信心のお鍛えなのですから、だから光昭が今、一生懸命神様まあ神様に心を向けておる、どうでも家内がおかげ頂かんならんから、だからなら例えば恵美子さんがさんが元気になった。それから又信心が緩んだ。又次のお鍛えを頂くでしょう。
何故って神様の願いと云うか期待と云うか、掛けられて居れば掛けられて居るだけ、私はそれが大きいと思うです。そこの所をね、そこの所を例えば良い加減にして、はぁもうこの世は苦の世だ苦の世界だと云う様な頂き方になった時に、信心はもうそこで停止致します。そして本当にこの世は苦の世だ苦の世界だと云う事になってしまいます。云うならばしゃんとした信心させて貰うてです。
限りなく信心を言うならば進めて行く、高めて行くと言う事が有難い楽しいと云う信心を、だから先ずは本当に早く身に付けなければいけないと云う事になりますね。富久信会にね私くしがそう云う様な意味でです、それこそ天に道あり人の踏み行うに又道があるんだと云う事を、人の商売人として努力しなければいけない所は一生懸命努力する工夫もする。こう云う生き方じゃいかんと色々工夫もしてみる。
只それだけでなくその事を商売を通してです、神様の絶対性と云うか、神様の間違いなさと云う物を体験させて頂く為に商売がある。商売人には。御用を通して神様の一分一厘間違いのない働きを体得して行く。その為には今自分が工夫をさして頂いてですね、ギリギリ此処これだけの事だけは儲けさせて貰わねば私共の店は維持が出来ない。是だけは最小限度是だけは所謂、元取っておかなきゃでけんと云う訳です。
だからその元を取る為にはです、今日一日回ったけれどももう商いは今日はなかった。まあ是は神乍らじゃろう、又明日どん宜しくお願いしますちゅな云う事じゃでけんちゅうの。ふうたらぬるかね自分の働きは棚に上げてから、それを神乍らなんて出来ん。自分商売のやり方のまずい事は棚に上げてから、それを神乍神乍でそれこそ神乍主義になってから、信心も言わば阿片なりと云われる様な結果にしかならないのです。是は商売だけの事だけじゃないですよ。何の場合だって同んなじです。
一事が万事、今日は子を産むはと云う事を私しはおかげを産むはと云う風に頂いて貰いたいです。おかげを生み出して行く為にはと云う事です。ちょうど十一時過ぎまでそれを福岡の嘉朗さん聞かして頂いとって、もうつくづくと自分の信心商売の不熱心である事に気付かせて頂いた。神乍らもう最近はとにかく不振である。なか々信心は進まない。ああ商売の方が振るわない。
小さい店ではあるけどお店は一軒貰うた。家内が家の店を預からせて貰う。自分が外の方を回らせて貰う。本当から云うたらと、内外から儲けださなきゃならんのに、かえってそれが不振の元になっておる。はぁ両方になったから両方に心が散るからそれで商いが無いとじゃろう位に思うとった。一つの物が二つになるならばです、二つだけの矢張り内容、力と云う物がなからなければいけん。
お店を拡張したちゅうなら拡張しただけの力がなからなければ、それを維持して行く事はでけん。子供が一人増えたならば、それだけ一人言うならば生活費も嵩むのだから、それだけお父さんたる者頑張らなけりゃ出来ん事がと同んなしです、そこで今迄の行き方があまり神乍ら神乍らと言う行き方であったから、人の踏み行く又踏み行うて行かなければならない、商売人として精進しなければならない。
しかも神様を絶対のものとして頂ける為にも、それこそ親先生が云われる様に十二時までは今日だと云う様な気持ちで行かじゃいけんのと云うのて、早速まあだ一時間あまりの時間を電話を掛けたり、又今からすぐ行きますからとかと云う様な風で、そのう電話を掛けた。丁度原価が十七万円からする反物が仕入れとるけれども売れない。それでこんな不景気の時だからもう七万円損しても良かと思うて、是を十万円で良いからちゅうて是を一ちょ買うち下さいと云うて持って行っとった。
或所へ。所がもう例えばねこうねじくられると誰でん嫌です。それでもやっぱり買おうちゃ言いなさらん。所がですその日そのうそう云う着物反物が欲しいと云う人が、その場に出て来たのです。それなら又明日お伺いしますからと云うて、その預けとったそれを持って行って、実は是は小売は三十五万円ですけれども十万引いて二十五万にしときますからと云うて商いが出来たと云う訳なんです。
もう本当にこの神様ちゃ打てば響くごたると云うその思いを翌る日お礼に出て来とります。十万ででん良かったつが二十五万に売れた。それも十万円は勉強しとると、十二時までは今日のまだつーそう言う私しは、人事の限りを言うならば尽くすと言うか、その尽くした向こうにとてもとても想像も出来ない様な、神力の無限の働きと云う物をそこに感じる事が出来る。それと是とは一つにならなければでけない。
神力と人力とか一つになって、そうしてその向こうに思いも掛けない夢の様なおかげが待っている訳なんです。だから私が十二時まで頑張ったから出来たのではない。頑張らせて頂いたから出来たのだと云う事。頑張ったんじゃない。頑張らせて頂いたんです。だからそこに言うならば生みなされる物があったと云う事になるのです。そう云う事が毎日毎日続くと云う事もなかろうけれどもです。
是は愈々出来たり出来なかったりと言う事もあろうけれども、でけなかった所は自分の不調法、出来なかった所は自分の信心不足としてそれを繰り返し繰り返し、繰り返さして頂いとる内にです、もうそれこそ日々ギリギリの線まで行く様な事はなくてです、もうゆっくりと経費だけではない、段々余裕もゆとりも出来て来る様なおかげにもなって来る。是は私は何時も例に申しますけどね。
私が善導寺にお参りをして居る時に、例えば神様は天地の事は自由になると仰せられるから、例えばもう降りそうであっても、神様にお願いしてやらせて頂く。おかげで私が例えば善導寺、椛目間を歩かせて頂いて、もう曇ってもうそこまでもう降っとる様であっても、雨は私の後からしか降って来なかったです。もうその時分の私の話はもう嘘の様であったですけどね、確かに天地が自由になられる。暑い炎天に中島の上滝さんなら上滝さんの家に話に行けと頂く。
蔭の方ども入って行きよると神様がね、楽したいと云う心は堕落したい心だと厳しく教えて下さりよった。楽したいと云う心はもう堕落の始まりです。ですから炎天の道のまん中を歩かして貰う。一服さして貰うでも、それこそ石の例えば久留米椛目間を何時も歩いて久留米にお参りした時代はです、もう神様は日陰でも休まして下さりゃ良いけど、サア一服せろと仰るのにもう一番暑い所の焼けたごたる石の上に掛けてから一服して行けです。もうそんなら尻の方が熱かけんで神様は皮肉なごたるけんど。
そげな風にしてそうして鍛えて下さるんです。そう云う所を段々通らして頂く様になったらです、例えば私が上滝さんなら上滝さんの所へ行きょると、それこそ雲がずうと私くしの上に日陰をつくって、行くまでもう雲が付いて回る。雲の蔭が写るでしょう夏は、お湿りでもそうでした。もう私の一間二間先向こうまで降って来よるとですよ、そして教会に着いた途端また自宅に着いた途端にダーッと降るんですね。
だからそういうおかげを頂く迄にはです、なら私が椛目から向こうて神様にお願いさせて頂いて勿体島まで来た、所がポツポツ降り出した。もう飯田辺りまで行く時にはもうどんどん降り出した。ああ神様は云う事聞いて下さらじゃたバイのとは思わなかった。勿体島まで濡れんだったと云う事をお礼申し上げた。濡れるところは私の信心の不調法としてお詫びをしていた。でなかったら神様を絶対のものとして頂くためにもそういう頂方をしなけらばいけないです。
段々おかげを頂く様になって善導寺の町に着くまではおかげで降らなかった。町から教会まで行く間に又結局はびしょ濡れであった。はぁ段々おかげを頂いて善導寺までは濡れんで済むおかげを頂いた。もう教会はそこの見えとるとにです走ればもう濡れんで済んどっただろうけれども、ほんな教会を前にして降ると云うな事もあった。はぁ神様ちゃ此処まで私の云う事を聞いて下さる様になったと云う頂方なんです。
そして教会に着かせて頂いた。途端にお湿りがありだした。と云う様な所謂確実に頂ける様になって初めて、あぁこの神様は間違いが無いなあと云う確信が生まれた。その確信が確信を生んで行く。商売でも同じ事。十二時までは今日だと、おかげで十一時までには立派に頂ける様に、十時までには出来る様になって来る。そして万一十二時まで一生懸命回ったけど出来なかった時には私の不調法として。
神様も良い加減なもん、まあ下さったり下さらなかったりと云った様なものではなく、下さるのだけれども、こっちの頂き様が悪かったとしてです、お詫びをして行く以外にない。そういう行き方を繰り返し行く内にです、絶対のもの間違いのない物が産みなされて来る様なおかげになって来る。そしてそんならばです、我が力で産むとは思うなと、皆親神の恵む所ぞと仰る事がです、良く解らせて頂く信心にならして貰う。
成程十一時までも十二時迄も頑張ったと云う間は頑張ったで自力である。けどそれ迄頑張らせて頂いた云う所にです、成程神様のお恵を受ける事であると云う事が解る。何故そんなに頑張らなきゃならぬか、それが神様がお鍛えだからなのです。神様がその様にして鍛えて下さるのです。なら光昭がお道の教師として、又はなら恵美子さんがお道の教師の家内として、これから又人の助かる事の為に、本気で御用させて貰わなければならない。そういう素晴らしい例えば道を開かして頂くのにです。
なら過去の様な信心で人が助かる筈もなからねば、自分が助かる事すら出来ないでしょう。何時までも親のすねをかじっとる訳には行かんのだ。そこで此処で一心発起してそれこそお道の教師がです、朝の御祈念に間に合わん様な事でお道の教師が勤まるか。神様が大きな声をしておられる様な感じ。そこで家内を使うて言わば光昭のお鍛えがある。いや光昭だけではない、夫婦共に鍛えられておるのだ。そこでですそういう痛いとか心配やらで鍛えられるよりも有難い勿体ないで鍛える。
行き方が云うならば修行であります。だからこの修行をです尊しとし有難しとする信心を本気で身に付ける。困って来たから尻に火が付いて来たごたるから神様に向かうと言った様な事ではね、何時までも本当のおかげは頂かれません。そしてそう云う生き方はやっぱりこの世は苦の世だ苦の世界と云う事になってしまいます。苦と云う物があるのじゃない。その苦と思う事はですもう全部全て神様お鍛えの言うならば印だ、働きだと頂かして頂いたら有難いですね。
どうぞ。